自己嫌悪と傷

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日が空いてしまいましたが、続きです。



通信制高校への進学は私にとって苦難でした。
というのも、元引きこもりである上に
母親からの言いつけで、携帯代を支払う、それとは別に生活費として毎月2万を渡す事が義務付けられていた為
元引きこもり、不登校の状態での連日続くバイトの日々。そして週に一回スクーリングを受ける為に電車で40分ほどかけての登校。
今の私からすれば、バイトの時間も短く感じますが、引きこもりから急に毎日の様に外へ出なくてはいけない
まして、不登校だった為学力も追いついていない状態からの高校の授業と、果てしない数のレポート。

正直精一杯で、あぁつらいな、と毎日の様に感じていました。

そして、高校進学から数ヶ月後、ついに糸が切れたように疲れて、私はまた市販薬の大量摂取を行いました。

しねるだなんて思っていませんでしたが、ただひたすらに 疲れた、つらい、逃げたい そんな気持ちでした。

odした薬が鎮痛剤だった為、精神的に楽になる事も勿論なく、それ以上に身体は悲鳴をあげていました。

そして、バイトを1週間近く休み、その後も情緒不安定から休みが増え
その月のお給料は母親に支払う金額すらない程で、どうしよう、怒られる、責められる
そんな気持ちでただ焦燥感に駆られ、そして私は自分の身体を売ってお金を稼ぎました。
その時は16歳になる数日前とかで、何をやっているんだろう、空虚な気持ちと苦しさに襲われました。

当時、遠距離恋愛ではあったものの、私には2歳上の恋人がいて
その人は私を決して否定する事も、怒ることもないくらい、とても優しい人で
そんな彼の事が大好きだった故に、自分がやった事への罪悪感に囚われていきました。

彼の優しさが好きだったけれど、何でも許してくれる、彼の優しさが痛くて
それに甘えてしまう自分の醜さが何よりも嫌いで、私は身体を売ってからというもの、彼と付き合っている事への罪悪感を抱くようになりました。

私が傷付けて苦しめていても「大丈夫だよ」とそう言わせてしまう自分が嫌で、彼には幸せになってもらいたい私はそばにいたら傷付けてしまう

そんな自己中心的な考えで、私は彼に別れを告げました。
それでも心の何処かでは「引き止めてくれるのではないか」と馬鹿げた考えがあったのも事実で…
けれど、彼はまたいつものように「わかったよ」と別れを受け入れました。

自分のせいで振り回した上に傷付けておいて被害者面のように感じられるかも知れませんが
幼かった私は「やっぱり別れたかったんだ、そんな軽い気持ちだったんだ」と
振っておきながら振られたような気持ちで押しつぶされそうになっていました。


今考えると、彼は私を思って受け入れたのだと分かりましたが
当時の私は裏切られた、見捨てられた、と境界性人格障害特有の 理想化と価値剥奪 で悩みました




最近になり、色々と事情が重なり、もう一度その彼と話す機会が出来たのですが
当時は言えなかった思いや、謝罪の言葉を伝えられて、お互いに理解出来たような気がします。

彼は今でも優しく、愚痴を聞いてくれたり、あの頃と同じように私を肯定してくれます。

ちゃんと大切に想ってくれていたんだな、と嬉しい反面苦しくもなりましたが
私は別れを選んだ事は後悔していません。

いや、後悔していないといえば嘘になる部分もあります。
私にとっては幸せにしてくれる人だったと今でも思い出しますが、彼はきっと私といれば苦しむ事になったと思います。
優しい人だからこそ、私は傷付けてしまうのだと。

だから、別れを選んだ事で彼が幸せになる未来を選べたのなら、後悔なんてないと言えます。

ただ幸せに生きてくれたら、私はそれだけで肯定された様な気がする。
エゴなのかも知れませんが…



話は大分逸れましたが、身体を売ってお金を稼いだ私は今まで以上により一層自己嫌悪に囚われることになります。
自業自得ではあるものの、誰かに相談できる内容でもなかった為、私は更に孤独を感じる事になりました。


時間が傷を癒やす、なんて事はなく
私の傷は膿んで爛れていくような、そんな感覚を鮮明に感じる程、私は墜ちていきました。




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植え付けられたトラウマ

 

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✡中学3年生✡

 

何とか進級をし、中学3年生になったのですが、不登校になる事に…

精神状態の悪化、家庭環境の悪化。

それと同時に学校であった事件に植え付けられたトラウマから、フラッシュバックや過呼吸に襲われ、学校に行けなくなっていきました。

 

学校での事件を知らない家族は事情も知らないまま「不登校はよくない」「華琳が不良になってしまった」と責め立てられました。

 

正直、家にいてもつらいだけだったので、学校に通いたい気持ちは強かったのですが

学校に入るといないはずの人物の声が鮮明に聞こえたり、目の前で事件が繰り返される様な感覚に襲われ、自分ではどうする事もできませんでした。

 

不登校になると同時に引きこもりになってしまい、無気力状態から天井をぼんやりと眺めて一日を過ごしたり

ベッドから出ずに夜を迎えたり

廃人のようになっていきました。

 

中2まではそこそこ成績もよかった為、偏差値の高い高校を目指した方がいいと周りに言われていたのに

不登校、無気力、odによる脳へのダメージなどで勉強は出来なくなっていき

私に残されたのは“通信制高校”のみでした。

 

 

 

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家庭環境と心の闇〜中学生〜

 

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✡中学2年生✡

 

初めて自傷行為をした中1の1月から中2の11月まで

私が自傷行為をしている事は親に知られる事はありませんでした。

 

自傷行為がバレた原因も、親に見られたのではなく

学校に知られて強制的に精神科に連れて行かれた事で、知らされることとなりました。

 

 

話は遡りますが、学校に知られた経緯について簡単に説明させて頂きます。

 

中2でとある事件(詳しい話は別に書かせていただきます)があり

私の精神状態は余計に悪化していきました。

希死念慮から酷くなるリストカットは「怪我した」と言うには苦しい状態で

バレない為にアームカバーや包帯で隠していたのですが、ずっと着けていた為保険医の先生(A先生)に呼び出され

「まだ治らないの?病院は行った?」と聞かれ大したことないので大丈夫です、とその場を凌ごうとしたのですが

A先生の勘は鋭く「本当にただの怪我?自分でやったとかじゃない?」「一回見せてくれる?」と、傷を見られ知られる事になりました。

 

親に言わないでほしい、という私の願いを聞き入れてくれていたのですが

日々増える傷や希死念慮、学校での自傷行為等で

「専門家に見てもらわなければ危ない」と判断され、精神科に行く事になりました。

 

学校で自傷行為をしていた自分が馬鹿だとは思いますが、家だと姉と同室だった為、トイレや浴室でしか出来なかった事。

希死念慮に襲われた時の対処法が自傷行為しかなかった事。

などがあったので学校での自傷行為は既に知られている状態だと気にせずする事が出来たのです。

(今思うと本当に迷惑をかけたな、と申し訳ない気持ちでいっぱいです)

 

精神科の受診で通院する事が決まり、最終的に親へ知らされることとなったのです。

 

 

精神科に通院をはじめ、あまり日が経たないある日、当時16歳だった姉は家を出て行きました。

母に意見を言えるのも、母を抑圧出来たのも姉のみだった為、母は今まで以上に荒れ、

そんな母についに痺れを切らした父は離婚届を母に突き付けました。

 

タイミングが悪かったのだと思いますが、その時の私は家庭が崩れたのは自分のせいだと自責の念に駆られていました。

 

家庭環境の悪化に比例するように、私の精神状態も悪化していきました。希死念慮がついに抑えきれず、自殺未遂、市販薬や処方薬の過剰摂取(od)等、誰が見ても分かるほどに病んでいきました。

 

 

 

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家庭環境と真実〜中学生〜

 

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✡中学1年生✡

 

脳内お花畑のまま小学校を卒業し、中学生になった私は、知りたくなかった事実を知る事となりました。

 

周りに感化されてネットを使い始めた私は、とあるブログと出会いました。

 

その内容は虐待について書かれたもので

当時の私は『虐待=暴力』と思っていた為、自分とは無縁のものだと思いつつも読んでいたのですが

 

“精神的虐待”や“ネグレクト”等を知る事になり、そしてその時初めて自分が虐待を受けていたと知りました。

 

省略する部分もありますが大まかに母から受けていた虐待について書き出すと

 

・パチンコで負けた時の八つ当たり(理不尽な内容)

・母を怒らせると食事や水分を一日摂らせてもらえない(部屋から出れば余計に怒られる)

・ゴミ屋敷状態やパチンコに行き食事がない(ネグレクト)

・人格否定の言葉の数々

・人権侵害レベルの監視

 

また、虐待ではないですが、条件付きの愛だった事もその時知りました。

 

〖実際にあった条件の一部〗

・良い子(理不尽な内容でも母に従順に従う)でいる事で褒められる。

・自己犠牲的に尽くして母の機嫌を取る。

 

 

“愛さえあれば幸せ”と思っていた私は条件付きの愛だった事、母にされてきた行為は虐待だった事を知り

私の中で何かが崩れていくのを感じました。

 

そして、愛されていなかった事実で傷付いていた時追討ちをかけるかのように母の口から衝撃的な言葉を聞かされました。

 

それは中1の冬の事。母と姉が口喧嘩を始めました。

日頃から母と姉は言い争いばかりしていた為「また喧嘩してるよ…」くらいの気持ちで、巻き込まれても面倒なので寝たふりをしながら、嫌でも耳に入って来る言葉をぼんやりと聞いていました。

 

姉が「いつも華琳ばかりズルい!なんで私ばかり怒るの!?」と、言い放ち

それを聞きながら『私は反抗しないし怒らせないからなぁ。お姉ちゃんもわがままばかり言わないで言う事聞けば怒られないのに』と、我ながら冷めた感想を抱いていました。

 

すると、母から出てきた言葉は予想外のもので

「華琳はお父さんやおばあちゃん(父方の祖母)にあまり愛されてないの分かるでしょ?

いつも〇〇(姉)ばかり可愛がられて、昔から手がかかるのは〇〇で、華琳は一人だったのよ!可哀想だから私は華琳をよく見ているけど、良い子だから怒らせることはしないから怒らないだけでしょ!?」

 

薄々、父や祖母からあまり好かれていないのは気付いていました。

愛想がない、考えている事が分からなくて不気味だ、と父から直接言われた事もありました。

 

だからこそ、従順にしていた母は心の奥ではちゃんと大切に思ってくれているんじゃないか。そんな淡い期待を抱いていました。(虐待されていても尚そう思っていたのは、そう信じたかったからだと思いますが)

 

母が私と過ごす時間が長かったのは“可哀想だから”で、母から見て私は都合のいい存在なんだと言われたようで

 

色々な感情や考えが巡る中、寝たふりをしたまま大号泣しました。

 

理解している事でも人の口から聞かされると

言い逃れができない真実となってしまう。

 

『私はやっぱり愛されていなかったんだ』

 

その日はショックから眠ることができず、夜通し泣き続けました。

 

そしてその事実を知らされた数日後、

私は初めてリストカットをしました。

 

この頃から私の長い“病み期”は始まりました。

 

 

 

 

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家庭環境〜小学生〜

 

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小学校入学前、騒音問題等で大家さんから「出て行ってくれ」と告げられたらしく

私達家族は少し離れた地域へと引っ越しました。

 

通う小学校のすぐ近くのアパートで、ちゃんとお風呂も付いていて、ボタン1つで湯船に入れる事が私の中で衝撃的でした。

 

祖母と距離が離れた為、自然と会う頻度は減っていきました。

 

 

✡小学生✡

 

母は近所付き合いが苦手だったので、小学校に入学するまで他人と接触する事がなかったです。

なので我が家の光景が異常という事に気付くことはありませんでしたが、小学生になり“周囲の家庭とは違う”と知る事になりました。

 

・パチンコに行く事が珍しく、幼稚園に通うのが一般的。

・わがままは言ってもいい。

・文房具や衣類、真新しく可愛らしい物を買い与えられている。

・一般的な家庭は専業主婦の母親は家を空ける事はほぼなく、行き届いた家事がされている。

・家族旅行や家族写真など、思い出を作る事がある。

・家に帰れば「おかえり」って優しく迎えてくれる存在がいる。

・毎日お風呂に入る。

 

 

私の中で当たり前だった事はほぼ全てが他の家庭とは違っていました。

 

家に帰れば“ゴミ屋敷”と言われる程散乱した状態、母は置き手紙に「パチンコに行く。遅くなったら適当に食べてて」と残し、パチンコの閉店時間前後までいないのが当たり前で。

成長と共にパツパツになった服をいつまでも着ていたのも、靴底が擦り減って穴が空いた状態で履き続けていた靴も。

お風呂があるにも関わらず、光熱費や水道代節約の為2日に1回しか入れず、不潔だった事も。

大型連休や夏季休み、冬季休みにお土産をくれる友達に、お土産を返す事が出来ないのも。

 

全部全部恥ずかしくて、周りに知られてはいけない、と必死に隠していました。

 

毎月500円程のお小遣いを貯めたり、お年玉で服や靴、文房具を買い、誕生日に父方の祖母がくれる服は大きめのサイズを頼む、など幼いなりにバレない努力をしていました。

 

また、小学校入学直後、母方の祖母はガンで亡くなってしまいました。

優しかった祖母が亡くなり、悲しかった事を覚えていますが、亡くなってから母から聞かされた話で私は祖母に好かれていたのか分からなくなりました。

 

よく預けられていたのは、祖母が私達を可愛がっていたからではなく、

母から預かってる事を理由にお金をもらっていたそうです。

 

また、母が育てられた環境についても話され、祖母も毒親だったようです。

当時の私は母の事が好きだった為、泣きながら話す母を見て、母を苦しめていた祖母に対する思いはとてもいいものとは呼べないものでした。

「大好きなお母さんを泣かせるなんて酷い」

そんな風に思っていました。

 

小3から夫婦関係の悪化で、よく離婚の話をされていました。

「親族や血縁者が私達子ども以外居ないから見捨てないで」と弱々しい母を見て、幼ながらに『お母さんを守らなくちゃ』と強く思っていました。

 

 

当時は我が家が他の家庭と違う事は理解したものの、脳内お花畑だった私はそれほど悩む事はなく

“愛さえあれば”幸せなんだ、と思っていました。

 

“愛があるなら”幸せだったのだと今でも思いますが…。

 

 

 

→続きます

家庭環境〜生い立ち〜

 

皆さま、如何お過ごしでしょうか?

 

毒親から離れた詳しい話をする前に

私が育った環境についてお話させて頂きます。時系列や文脈等、分かりづらい部分が多々あると思いますが、温かい目で見てもらえると嬉しいです。

 

 

✡生い立ち✡

 

片田舎の古びたアパートで2、3歳〜6歳頃まで育ちました。

古いからなのか、部屋のお風呂は壊れていたのを覚えています。

 

家族構成は 父・母・2歳上の姉の4人暮らし。

同じアパートの別室には母方の祖母が住んでいた為、よく祖母に面倒を見てもらいました。また、2、3日に1回程の頻度で祖母の家でお風呂を浴びさせてもらっていたようです。

 

父は週6日出勤で7時前に家を出て帰るのは23時頃だった為、私は父の事を家族の様に思えず、幼少期から父との距離感に悩まされていました。

母は当時専業主婦でしたが、両親共にギャンブルが好きだった為、父の休日は両親がパチンコ屋に行く事が多く、平日でも母はよく遊びに出かけていました。

5歳の私と小1の姉の2人でお留守番をする事もありましたが、大半は祖母の家に預けられていました。

 

金銭的理由で姉も私も幼稚園等には通わず、母が出かけるときは祖母に預けられる機会が多かった為、必然的におばあちゃんっ子でした。

 

母は「お金がない」と口癖の如く言っていた為、私は欲しい玩具もおやつも我慢していました。と言うのも、姉がわがままな性格で私と正反対の人間だったので、母にわがままを言い困らせ、叱りつけられていたのを見て育った為私は“わがままを言えば怒られる”と思っていたのだと思います。

 

成長してから気付いたことですが、あれだけ父が仕事をしていたにも関わらず

子供を幼稚園に通わせる財力がなかったり、いつも金欠だったのは、両親が自己愛が強く自分優先の毒親だったからです。

 

・お金がないと言いつつパチンコへ行く

・煙草やお酒の嗜好品は毎月3、4万ほど消費していた

・貯金はなかった、むしろ借金があった

・パチンコで勝てば外食等に遣う

 

今でこそ分かる事ですが、幼かった私には分からず、母がそういうのなら仕方のないことなのだと思っていました。

 

嗜好品やパチンコにお金を使う事が当たり前で、幼稚園に行くという事が珍しいものなのだと、そう思っていました。

 

→次の話に続きます

藍井 華琳

はじめまして

藍井華琳と申します。

 

今回は簡単な自己紹介と、これから書くブログの内容について、書かせて頂きます。

 

 

【自己紹介】

✡藍井華琳 アオイカリン

諸事情にて、こちらの名前を使わせて頂きます。(架空の名前)

✡女性

✡今年で19歳になります。

✡現在は親元を離れ、4歳上の彼氏さんと同棲しています。

✡精神科通院歴有り。境界性人格障害を患っています。また、市販薬依存症や自傷行為等様々な問題を抱えております。

毒親育ちです。

✡趣味は絵を描く事です。

 

以上。

 

【ブログ内容について】

先にも述べた通り、私は精神病を患い、そして幾つかの苦難と闘っています。

 

私はこのブログを通して“人を幸せにする”等の想いは持ち合わせてはおりません。

人を幸せにする以前に、自分自身の問題を解決しなければいけない。そう思っている為、このブログは誰かに向けた物として捉えるには歪で、欠陥しています。

 

では、何故ブログを書くのか。

それは誰かに知ってほしいからです。

漠然的な思いだと自覚はしております。ただ、私が生きた証を、足掻いた軌跡を残したい。

 

このブログは完全なる自己満足であり、そして“藍井華琳”という一人の人間の備忘録でもあります。

 

私がしてきた選択は正しい、なんて自惚れるつもりはありません。それどころか、間違いばかりの人生でした。

それを人様に晒すのは矛盾している様に思います。

けれど、一個人の考えや価値観、そして選んできた道を知ってもらいたい。

 

“こんな人間もいるんだな” “そんな考えもあるんだな” その位の感じ方でいい、ただこの世界には私の様な人間がいて、こんな人生があった、それを知ってもらいたいのです。

 

文才もなく、分かりづらい物だと思いますが

温かい目で見て頂けると幸いです。

 

私の経験が誰かの役に立つことが少しでもあったらいいな、とも思います。

反面教師だとしても。

 

世間の風潮を見て、私は感じる事があります。

最近よく見る“量産型”の文字。人に同調して悪意を剥き出す人々。“一般的”や“普通”に捕らわれ、異なるものは悪と見做す風潮。

 

私自身、毒親育ちで自分が普通ではないと知り、必死に普通になる努力をして生きてきました。

けれど、普通になる事は出来ませんでした。

 

「どうして私の家だけ他と違うのだろう」

「どうして周りの子は当たり前に幸せに生きているのだろう」

「ズルい、ズルい、ズルい!」

 

そんな気持ちで生きていた時期もあります。

正確に言うと、今でもたまにそう思ってしまう事もあります。

 

けれど、ある日知り合いの目上の方にある言葉を貰い、私の考え方は大きく変わりました。

 

「貴方は人より険しい道を歩んできた。回り道を何度もしてきた。つらい事も多かっただろう。けれど、それらは無駄ではなく、貴方の人生を輝かせる物になる。」

 

「同い年の子と自分を比べた時、どちらが幸せかを考えるのはやめにしよう。経験は何よりも貴重なものだ。」

 

つらい思いで生きてきた人生が、初めて肯定された様な感覚でした。

私が生きてきた事、悩んできた事を“輝かせる”のも“腐らせる”のも自分次第なのだ、と。

 

私はこのブログは誰に向けた物でもない、と述べましたが、もし誰かの役に立つことが出来るとしたら、同じく毒親に悩む未成年者の方々です。

偉そうな事を言える立場でも、教養がある訳でもありません。けれど、私がこうして今、毒親から離れ生きている事実は、誰かの希望になれるかも知れない。

 

実際、私が毒親から離れるまで、未成年者では親元から離れる事は不可能だ、と思っていました。

調べて出て来る内容はどれも非現実的であり、困難なものばかり。

私は警察や児童相談所へ行った事もありましたが、状況もあり、離れる事は出来ませんでした。

 

その時、酷く絶望したのを鮮明に覚えています。

〔つらい 助けて〕〔親から逃げる方法〕等

色々調べると必ず出て来る、警察や児童相談所の名前。

「死ぬくらいなら相談してみよう」そんな言葉を鵜呑みにしていましたが、それは綺麗事に過ぎませんでした。

とは言っても、私が17歳だった事、自殺未遂で保護された事、精神病を患っていた事。

様々な問題が重なった結果だったのかも知れません。

 

けれど、知識の無い私は まさに絶望の淵でした。

 

“助けてくれる人はいない” “私に残された救いの道は死だけ”

 

そう感じていました。

けれど、今こうして18歳にして親元を離れた事、救いの道が他にもあった事。

それを毒親に苦しめられる未成年者に伝えたいです。

 

長くなりましたが、このブログを通して一人でも誰かの救いになれることが出来たらいいな、と思っております。

そして、普通に縛られる人に、私の普通ではない人生を知ってもらいたい。

人間は十人十色と言いますが、世間の風潮でその考えが悪と思う人もいると思います。

私は肯定されたいのではありません。

ただ、こういう人もいる、こういう考え方もある、そう思ってもらえるだけでこのブログの存在意義があります。

 

長々と書いてしまいましたが、今回はここまでにします。

 

もし、ここまで読んでくださった方がいるとしたら、心からの感謝を伝えたいです。

分かりづらい文脈や、なけなしの語彙力ですが、これからも私の人生録を書いていきますので、よろしければ見て頂けると嬉しいです。

 

ブログを読んでくださった皆様に幸せが訪れる事を祈っております。